HERITAGE OF MODEARNIZATION Story.01『近代技術導入事始め』海防を目的とした近代黎明期の技術導入の歩みを物語る近代化産業遺産群

時代を突き動かす熱意と創造力

近代黎明期の技術導入は、日本近海への外国船の来航による海の守りへの危機感から始まった。幕府と地方政権による洋式大砲の製造や洋式船舶建造への取組みは、手に入るだけの数少ない蘭学書を頼りに、先人達の多大な熱意と旺盛な創造力をもって、試行錯誤を重ねながら進められた。 この先人達の足跡は、今も、韮山や萩などに残る反射炉関連遺産や鹿児島の尚古集成館、佐賀の徴古館の所蔵物などに刻み込まれている。 このストーリーの近代化産業遺産例

19 世紀初頭になると、それまで外交関係を結んでいなかったイギリス・アメリカ・ロシア等の船が我が国の近海に来航するようになり、さらには阿片戦争で東アジアの大国・清国が欧米列強に敗退したことが伝わると、外国船の来航に対する脅威が高まり、幕府及び地方政権によって海防軍備を目的とした鉄製大砲及び洋式船の建造が始まった。
特に、我が国の南西部に位置し外国船来航に直面することが多かった西国雄藩では、高い危機感のもとで先進的な取組みが行われた。まず、従来から長崎防衛の役割を担い青銅砲の鋳造技術を持っていた佐賀藩の藩主・鍋島直正は、1850 年に反射炉の建設に着手し,鋳鉄製大砲を完成させ、これを長崎の砲台に設置した。また、1852 年には、藩営の技術研究機関である「精煉方」を創設し、後にはオランダから工作機械も購入して蒸気機関や蒸気船、火薬、ガラス等の研究を行った。
次いで薩摩藩でも、島津斉彬が藩主になると即座に本格的な西洋技術の導入に着手した。洋式船舶の建造を主目的とした各種産業育成のため、磯に洋式工場群である「集成館」を建設し、造船・製鉄・ガラス・紡績・製薬・通信などの多様な産業を育成した。これらの成果として、1854 年には洋式木造帆船である「昇平丸」を建造し、また、1855 年には蒸気機関を完成させ、これを搭載した「雲行丸」の試運転に成功し、さらに、1857 年には佐賀藩に続き鋳鉄製大砲を製造した。集成館事業は斉彬の死後一時的に途絶えたが、薩英戦争の敗退を契機としてその意義が見直され、1864 年には長崎製鉄所経由でオランダ製の工作機械を導入し、イギリスから紡績技士と機械を導入して鹿児島紡績所を建設するなど、欧米諸国の技術を積極的に導入しつつ復興を果たした。また、船舶の点検補修のため、1867 年に長崎で小菅修船場に着工した(1868 年に竣工し、翌年、新政府に売却)。
同じ頃、長州藩でも、郡司鋳造所での青銅製大砲の製造や、鉄製大砲を製造するための反射炉の建造等が行われた。また、恵美須ケ鼻造船所では、後述する戸田村の技術を導入し、藩として初めて「君沢型スクーナー」を建造した。しかし、1863 年、64 年の二度にわたる欧米諸国との戦争(下関戦争)に敗れたことで欧米諸国との技術の格差を痛感し、以降はイギリスからの技術導入を図ることとなった。
これらの他にも、水戸藩による那珂湊反射炉の建設と石川島造船所での「旭日丸」の建造、韮山代官所による反射炉建造など、全国各地の地方政権により海防軍備を中心とする洋式技術の導入が行われた。
一方の幕府は、江戸に砲台を整備し、また1854 年には洋式木造帆船である「鳳凰丸」を完成させた。
開国以降は、実際の外国技術に触れながら技術を習得することを目指し、1855 年には長崎に「海軍伝習所」を設立し、オランダ人教師の指導により、観光丸などのオランダ製軍艦を練習船として海軍人材を育成した。また、これらの軍艦の修理を行うため、1857 年には同じくオランダから各種工作機械、スチームハンマー、それらを駆動する蒸気機関等を購入して、同国人の指導のもと、1861 年に我が国初の本格的洋式工場である「長崎鎔鉄所」(後に長崎製鉄所に改称)を建設した。ここで工作機械の取り扱いを学んだ職人達は、その後全国各地に渡り技術を伝えた。
また、これらと並行して、1854 年に伊豆沖でロシアの木造軍艦ディアナ号が難破したことに対して、韮山代官を建造取締役に任命し、戸田港に船大工十数名を派遣し、ロシア人士官の指導のもとで代船「ヘダ号」を製造させた。ヘダ号の完成以降も、幕府の命によって同様のスクーナー船(君沢型スクーナー)6 隻が戸田で建造され、洋式船の船体建造技術を蓄積した。
これらの技術導入の成果として、幕府は1861 年に洋式蒸気軍艦「千代田形」の建造に着手した。この事業は、船体設計は長崎の海軍伝習所出身の技術者が担当し、機関は長崎製鉄所で製作し、船体工事は戸田村等で洋式船の建造に従事した人材を配置するという、当時の洋式造船技術の粋を集めたものであり、ボイラー製作の遅れ等により完成まで時間を要したが、1863 年にようやく進水することができた。また、これと並行して、より本格的な洋式船を建造するための施設として、1865 年には横須賀製鉄所に着工した(新政府が引き継いで完成)。
地方政権と幕府による鉄製大砲や洋式船への挑戦は、当初は鎖国体制のもとで情報が著しく制限され実際の技術に全く触れることができない中で、オランダ人ヒューゲニンの著作『リエージュ国立鋳砲所における鋳造法』に代表される数少ない蘭学書等を頼りに、多大な労力と試行錯誤のもとで進められた。しかし、開国後には、実際に欧米諸国と交流を持つ中で、苦心して導入した技術が実は欧米では一世代前のものであったことを知るに至り、独自の技術開発から欧米の人材・機械の導入による技術習得へと転換した。
このように、幕末に導入された洋式技術の多くは必ずしも明治以降の技術と直結するものではなかった。しかし、先人達の多大な熱意と努力、そして旺盛な創造力が近代化に向けた動機を加速させ、明治以降に活躍する人材を生み出したという点において、我が国の近代化の大きな礎となった。また、造船関連設備の建設が進められた長崎、横須賀等は、明治以降の造船近代化の拠点として大きな役割を果たすこととなった。

民間人の努力によって建造された反射炉鳥取県東伯郡北栄町、大分県宇佐市
反射炉を用いた鉄製大砲の鋳造は、前ページで紹介した雄藩などによる事業だけではなく、民間人の手によっても行われた。
大分では、宇佐郡佐田村(現在の宇佐市安心院)の庄屋であった賀来惟熊が、佐賀藩の技術を参考として1855 年に反射炉を完成させた。彼ら一族は、周辺の諸藩の注文を受けて、当時としては優秀な性能の「佐田式」と呼ばれる大砲を製造した。この技術は各地に伝えられ、後述する鳥取の六尾反射炉にも活かされたと言われている。
また、鳥取では、藩主が反射炉の築造を構想したが、事業のための人材と資金がなかったため、藩とつながりが深かった豪農・豪商の武信佐五右衛門に相談を持ちかけ、彼の養子で洋式砲術と兵学を身につけていた潤太郎に反射炉の建造を行わせることとした。潤太郎は、努力の末に1857 年には六尾に反射炉を完成させ、中国地方の諸藩の注文を受けて、50 門以上の大砲を製造したと言われている。
このような民間への反射炉を用いた大砲鋳造技術の広がりは、当時の「海防」に対する意識の高さと、鉄製大砲の需要の大きさを物語っている。
  • 1-a 昇平丸模型(船の科学館所蔵)/東京都品川区
  • 1-b 韮山反射炉/静岡県伊豆の国市
  • 1-c 萩反射炉/山口県萩市
  • 1-d 築地反射炉跡/佐賀県佐賀市
  • 1-e NSBM社製の形削盤(三菱重工(株)長崎造船所史料館所蔵)/長崎県長崎市
  • 1-f 観光丸(復元/ハウステンボス観光船)/長崎県佐世保市
  • 1-g 旧集成館機械工場(現 尚古集成館)/鹿児島県鹿児島市
  • 1-h 旧集成館/鹿児島県鹿児島市
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出典:経済産業省作成「近代化産業遺産群33」

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