HERITAGE OF MODEARNIZATION Story.03 鉄鋼の国産化に向けた近代製鉄業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群

「最適解」を見つけろ

我が国製鉄業の本格的歩みは、幕末・明治初期の釜石での高炉による銑鉄生産に始まり、幾多の成功と失敗を繰り返しながら、八幡製鐵所の建設に至る。20世紀の幕開け、八幡製鐵所で歴史的な火入れが行われたが、その操業も決して順風満帆ではなかった。外国製の高炉の形態とそこに投入する石炭の性質が適合しなかったため、操業は短期間で一旦休止に追い込まれた。しかし、その後、高炉の形態と石炭の性質との間で「最適解」を見つけ出すまで多大なる努力が傾注され、八幡の操業は漸く軌道に乗り、鉄鋼国産化に向けた一つの技術的独立が達成される。 このストーリーの近代化産業遺産例

現在、我が国の製鉄は、世界をリードする高い技術と品質で、様々な産業や人々の暮らしを支えている。
その本格的な幕開けは、幕末騒乱の時代、岩手釜石の高炉による銑鉄生産にはじまる。
幕末、盛岡藩士の大島高任は、長崎でヒューゲニンの技術書に学び、水戸藩の招聘により那珂湊の反射炉建設に携わり、各地での試行錯誤の技術情報を聞く中で、高性能な大砲鋳造のためには高じん性(粘り強く亀裂が生じにくい)の鉄を大量に生産することが必要であり、鉄鉱石を原料とした高炉による製鉄が必要と考えた。大島は、鉄鉱石の産地である釜石大橋において、民間出資により高炉を建設し、1858 年1月15 日、わが国で初めて高炉による銑鉄生産に成功した。この高炉は小規模ではあったが、森林からの木炭燃料、清流からの水車動力、伝統的なたたら職人の存在、地元商人からの資金提供等、地域の人的・知的・環境的資源と西洋技術を結びつけることに大島は腐心し安定操業にこぎつけた。その後、明治初期までに最多で12 基の高炉が林立し、当時としては国内随一の工業地帯を出現させた。
1880 年、明治政府は我が国初の官営製鉄所を釜石に建設し、鉄鉱石・燃料輸送用の鉄道を開通させ、それまでとは異なる大規模高炉の操業を開始したが、ここで生産した銑鉄に必ずしも十分な品質を確保できず、結果として生産力に見合う市場を確保できなかった。このため政府は、莫大な欠損を伴う操業は継続できないということで、鉄鉱石の埋蔵量が残り少ないとの見積もりや木炭をつくる森林資源の枯渇などを理由にして、わずか数年で官営製鉄所を放棄し、1884 年に田中長兵衛に払い下げた。田中は、大島クラスの小規模な高炉を複数建設し、木炭燃料の積出し場を設置し、銑鉄生産を軌道に乗せた。また、陸軍砲兵工廠に大口の販路を確保し経営基盤を確立した。そして、製鉄技術の第一人者である野呂景義を迎え、工部省が放棄した大規模高炉の技術改良に努め、1894 年、国内初のコークスによる銑鉄生産に成功し、我が国の資本主義の創生とともに近代製鉄業の基礎を築いた。
一方、国内では造船業や機械工業、鉄道などの産業発展により鉄の需要が急激に増大しており、釜石田中製鉄所の成功と増産にかかわらず、多くを輸入に依存している状況であった。このため政府は、産炭地に近い九州の八幡村に、最新鋭の銑鋼一貫工場を目指して官営八幡製鉄所の建設を決定した。大島高任の長男である大島道太郎を技官として迎え、製鉄所の建設及び操業指導のためにドイツ人技術者を招聘し、高炉の作業員として釜石から熟練の作業者が参加し、1901 年に東田第一高炉への歴史的な火入れを行ったが、ドイツ式の高炉の形態と石炭の性質が適合しなかったため上手く機能せず、翌年には一旦操業を休止した。しかし、日露戦争の開戦により鉄の需要がさらに高まると、嘱託顧問として野呂景義を採用し、国内外産の石炭を調合して投入することにより、高炉形態に適合した操業技術を確立し、1904 年には高炉の操業を軌道に乗せることができた。このような技術改良の過程は、海外技術からの独立を果たした事例として重要な意義を持つ。
その後、八幡製鉄所は次々と拡張工事を行うとともに、製鉄に必要な水資源の安定確保のため河内貯水池を整備することで着実に生産量を拡大し、第一次世界大戦を契機とした重工業のさらなる発展や、原料・製品・人を輸送する交通機関の整備を支えていった。
また、八幡製鉄所の成功及び鉄鋼需要のさらなる増大を契機として、輪西(現:室蘭)、戸畑、神戸などに次々と鉄鋼工場が創設され、ここに近代の基幹的な素材産業である製鉄業が確立し、以降は順調に生産量を拡大していった。さらに、このような製鉄業の発展と併行して、炉壁として用いられる高品質な耐火煉瓦の生産技術が確立するなど、製鉄業の関連産業の近代化も同時に進展していった。

我が国独自の製鉄技術・「たたら製鉄」の継承を物語る文化館岩手県久慈市
我が国は砂鉄の埋蔵量が豊富であり、古来よりこれを原料とした「たたら製鉄」が行われてきた。しかし、明治期以降は鉄鉱石を原料とした近代製鉄法の普及に伴い、砂鉄の利用は縮小していくこととなった。一方、我が国は鉄鉱石の埋蔵量が少ないため、近代製鉄業・製鋼業の原料として鉄鉱石やくず鉄の輸入が拡大した。
こうした中で、野呂景義や西山禰太郎、鮎川義介などの技術者は、万が一海外からの輸入が減少した時のために、我が国において貴重な鉄資源である砂鉄を近代製鉄業の原料として活用するための研究を続けた(事実、我が国は大正期及び昭和初期に「鉄飢饉」を経験することとなった)。
西山禰太郎らは、1939 年に、砂鉄の産地であり、たたら製鉄が盛んであった現在の岩手県久慈市に、砂鉄を原料とする製鉄工場を開設した(川崎製鉄久慈工場、1967 年に閉鎖)。当地の「たたら館(砂鉄資料館)」では、たたら製鉄や砂鉄に関する展示を通して、このような先人達の努力を学ぶことができる。
有事の鉄不足に備えた砂鉄利用の努力を物語る「たたら館(砂鉄資料館)」島根県安来市、雲南市、仁多郡奥出雲町
我が国には、鉄鉱石を原料とした高炉製鉄が導入される遥か昔から、「たたら製鉄」と呼ばれる独自の技術が存在した。これは、釜に原料の砂鉄を入れながら木炭を燃やし、高温と還元ガスによって鉄を分離するという独特な方法である。
島根県東部は、豊富な砂鉄と森林資源を背景としてたたら製鉄が発展し、江戸期の最盛期には国内生産量の8割を占めるほどであった。明治中期になると、近代製鉄法の普及によって次第に衰退したが、これに危機を感じた地元のたたら経営者等は、1899 年に雲伯鉄鋼合資会社(現:日立金属㈱)を設立し、木炭銑角炉等による銑鉄の製造を行った。
その後、同社は、第一次世界大戦後の不況によって経営難に陥ったため、1925 年に鮎川義介に経営権を委ねて再建を図ることとした。鮎川は、「量より質に重点を置け」という方針を示し、安来工場の技術者たちは技術開発に努めた。
その甲斐あって、たたら製鉄の技術は今日の「安来鋼」として継承され、全世界で40%を超えるシェアを占めるカミソリの刃など、高い品質が要求される特殊鋼材に活かされている、このような我が国独自の製鉄技術・「たたら製鉄」の今日に至る歴史は、この地域の自治体が協力し、「鉄の道文化圏」プロジェクトに基づき整備された文化館(和鋼博物館・たたら角炉伝承館・奥出雲たたらと刀剣館・絲原記念館 他)で学ぶことができる。
  • 3-a 釜石鉄道 小川レンガ橋梁/岩手県釜石市
  • 3-b 橋野高炉跡/岩手県釜石市
  • 3-c 釜石鉱山550m坑口/岩手県釜石市
  • 3-d 木炭積出し場跡/岩手県釜石市
  • 3-e 八幡製鐵所東田第一高炉跡/福岡県北九州市八幡東区
  • 3-f 八幡製鐵所旧本事務所/福岡県北九州市八幡東区
  • 3-g 河内貯水池/福岡県北九州市八幡東区
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出典:経済産業省作成「近代化産業遺産群33」

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