HERITAGE OF MODEARNIZATION Story.04 建造物の近代化に貢献した赤煉瓦生産などの歩みを物語る近代化産業遺産群

街に文明開化の息吹を

明治維新を迎え、本格的な欧米文物の導入が始まると、頑強な構造もさることながら、文明開化の象徴として、赤煉瓦や板ガラスなどを使った近代建築物が各地で建造されていった。また、同時に、連続焼成ができ、赤煉瓦の大量生産に適するホフマン釜など、近代建築物の素材の製造設備も充実したものとなっていった。
埼玉県、栃木県、京都府、滋賀県に四つだけ残るホフマン釜やこれらから生み出された赤煉瓦などを使った東京駅、碓氷峠鉄道施設、千葉県や埼玉県の閘門などは、今も、我が国の建造物近代化の歩みをその壁面に映し出している。 このストーリーの近代化産業遺産例

我が国における近代建造物の普及は、幕末の開港に伴う長崎、横浜、神戸などの貿易港における外国人向け施設や、長崎や横須賀などにおける洋式工場の建設が契機となった。そして明治維新を迎え、本格的に欧米の文物の導入が始まると、欧米の建造物が有する頑健な構造に加え、文明開化の象徴としての側面からも近代建造物の需要が拡大し、これらの普及につれて煉瓦、セメント、板ガラスといった素材製造が産業として成長していった。
これらの中で、最初に広く普及したのは赤煉瓦であった。幕末には建設の都度に現場で陶器職人を雇い、登り窯やだるま窯を用いて赤煉瓦を製造していたが、明治に入って洋風建造物が急速に増加するにつれ、素材産業として需要が急速に高まった。特に、初期の煉瓦製造業の発展においては、明治政府による計画的な煉瓦街の建設が大きな役割を果たした。まず、銀座煉瓦街の建設のため、東京近郊の小菅で1872 年に我が国で初めて「ホフマン窯」(連続焼成が可能な輪形の窯)が導入された。続いて政府は、日比谷を中心とする官庁街の建設に着手し、これに必要な煉瓦を大量生産するための工場を計画した。この工場は、財政的事情から民間経営とすることとなり、渋沢栄一らによって日本煉瓦製造会社が設立され、1887 年には埼玉県榛沢郡(現:深谷市)において我が国初の機械式煉瓦工場が操業を開始した。ここでは、ホフマン窯により高品質の煉瓦が大量に生産され、東京駅、碓氷峠鉄道施設、東宮御所(赤坂離宮)などの建造物にも採用された。
小菅ホフマン窯や日本煉瓦製造会社工場が建設された利根川・荒川の中下流域は、窯業に適した良質な粘土が堆積し、古くから瓦製造が盛んであった。また、首都・東京に近いうえに、度々の水害で煉瓦による河川施設の近代化が急務とされるなど、煉瓦の需要が旺盛な地域でもあった。このため、明治中期以降には、瓦製造から転じた在来技術(だるま窯等)による中小煉瓦製造会社が多数設立された。松戸の柳原水閘など、埼玉県南部・千葉県北西部・東京都北東部に今日も残されている煉瓦水門群の建設では、明治中期には中小煉瓦製造会社の製品が使われていたが、明治後期になると品質の良い日本煉瓦製造会社の製品に徐々に取って代わられており、当地域における煉瓦製造業の成立と変遷の過程を物語っている。
また、関東地方以外でも、明治中期には煉瓦製造は一般的な技術として広く普及し、全国各地で多様な煉瓦造建造物が建設された。技術面では、福島県の喜多方のように登り窯による製造も依然として続けられていたが、徐々にホフマン窯が優勢となった。舞鶴の旧神崎煉瓦ホフマン式輪窯は、当初は登り窯であったものを、明治末期から大正期の煉瓦需要拡大に対応するため、両端を延長して楕円形に改良したものと考えられており、需要に応じた技術変遷の過程を表している。
近代に建設されたホフマン窯のなかで、窯本体の部分が現存するものは、前述の埼玉県深谷市の旧日本煉瓦製造会社と京都府舞鶴市の旧神崎煉瓦のものに加え、栃木県下都賀郡野木町の旧下野煉化製造会社のもの、滋賀県近江八幡市の旧中川煉瓦製造所のものの4つを数えるだけとなっている。
一方、赤煉瓦以外の建設素材の製造は、明治初期に工部省による官営事業として本格的に着手され、深川工作分局で耐火煉瓦とセメントの製造が、赤羽製作寮で耐火煉瓦の製造が、民間の興業社硝子製造所を買い上げた品川硝子製造所でガラスの製造が開始された。
これらの中でセメント製造は順調に軌道に乗り、1880 年代には早くも民間企業が創設された。旧長州藩士の笠井順八は、旧士族の授産事業としてセメント製造に着目し、山口県産の大理石と泥土を工部省深川工作分局に持ち込んで素材としての適性があることを確認すると、1881 年にセメント製造会社(後に小野田セメント㈱、現:太平洋セメント㈱)を設立した。続いて1884 年には、官営工場の払下げを受けた浅野総一郎が浅野工場(後に浅野セメント㈱、現:太平洋セメント㈱)を設立した。これらの企業は着実に生産を拡大し、赤煉瓦製造と並ぶ建造物の素材産業として発展した。また、技術面では徳利窯から回転窯(ロータリーキルン)への転換が進み、生産効率が飛躍的に高まった。
明治期から大正期にかけて、セメントは煉瓦の目地やセメントモルタル塗り建築物、港湾施設等の土木構造物などに広く用いられたが、1923 年の関東大震災で煉瓦造の建造物が多数倒壊すると、「煉瓦からセメントへ」という合い言葉のもとでコンクリート造への転換が進み、セメント製造業は建設素材産業の主役へと発展した。
このように、赤煉瓦やセメントの生産は、新しい技術の導入や経営者・技術者の努力により産業としての形を整え、建築・土木界のニーズの変化に対応しつつ近代建造物の素材を供給し、全国各地の近代的なインフラの整備に大きく貢献した。

  • 4-a 旧下野煉化製造会社瓦窯/栃木県下都賀郡野木町
  • 4-b 旧日本煉瓦製造会社ホフマン輪窯六号窯/埼玉県深谷市
  • 4-c 柳原水閘/千葉県松戸市
  • 4-d 旧中川煉瓦製造所ホフマン窯/滋賀県近江八幡市
  • 4-e 海上自衛隊舞鶴補給所 No.2・No.3・No.4・No.17倉庫/京都府舞鶴市
  • 4-f 神崎煉瓦ホフマン式輪窯/京都府舞鶴市
  • 4-g 旧小野田セメント製造株式会社竪窯(通称「徳利窯」)/山口県山陽小野田市
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出典:経済産業省作成「近代化産業遺産群33」

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