HERITAGE OF MODEARNIZATION Story.05 外貨獲得と近代日本の国際化に貢献した観光産業草創期の歩みを物語る近代化産業遺産群

人と文化の交差点

我が国の近代化に伴い、来日する外国人が増えると、東京、横浜、神戸等の居留地には、洋式ホテルが建設されるようになった。その後、日本各地への鉄道の延伸などに伴い、周辺のリゾート地にも近代的ホテルの建設が進んだ。また、これらとは別に国の迎賓館的役割を担い建築された近代的ホテルもあった。これらの近代的ホテルは、単に宿泊施設というだけでなく、国際的な人や文化の出会いの場としての機能を果たし、様々な歴史を紡ぎ出していった。 このストーリーの近代化産業遺産例

我が国における国際観光は、神奈川(横浜)、長崎、箱館(現:函館)の開港により修好通商条約締結国の外国人が開港場に居留し、10 里(40km)の範囲内の地域を旅行することができるようになったことから始まった。我が国に居留する外国人は1874 年には約2,000 人と言われたが、我が国の近代化とともに公務や貿易で来日する外国人が増加してきたため、東京、横浜、神戸等の外国人居留地に洋式ホテルが建設されるようになった。
その後、全国各地への鉄道延伸が外国人居留地から周辺のリゾート地への近代的ホテル建設の動きを促進していき、1890 年の宇都宮~日光間の鉄道開通が日光へ、1893 年の横川~軽井沢間のアプト式鉄道の開通が軽井沢へ、1888 年の国府津~湯本間の馬車鉄道の開通から1919 年の湯本~強羅間の箱根登山鉄道の開通に至る一連の垂直方向への鉄道延伸が箱根へ、それぞれ日本人観光客はもとより多くの外国人観光客を誘致するきっかけを与えることとなった。
一方、我が国に来訪又は居住する外国人によって新しいレクリエーションやスポーツが紹介され、1887年以降、我が国においても海水浴、ゴルフ、スキー、スケート、近代登山などが始められるようになり、国内旅行も従来の物見遊山的なものから、避暑やレクリエーション目的の旅行が普及し、これらの地域を国立公園や史跡・名勝として指定しようとする運動も起こった。このような動きは、滞在外国人の娯楽施設を有する本格的リゾートホテルの出現にもつながっており、1903 年に六甲山に我が国初のゴルフコースである「神戸ゴルフ倶楽部」が誕生し、1913 年には雲仙において我が国初のパブリックコースである「雲仙ゴルフ場」が建設され、1916 年には日光の「金谷ホテル」にスケートリンクが完成した。
我が国を訪れる外国人は明治末期には1万5千人前後に、そして大正期には3万人を超え、その後も国内外の社会情勢による増減はあるものの、昭和初期には4 万人前後にまで増加した。大正期から昭和初期にかけての訪日外客が消費する外貨(国際観光収入)は、当時の我が国経常収支の大幅な赤字の中にあって輸出額の3~4%(綿布、生糸、人絹に次ぐ第4位)を占め、経常収支の改善に大きく貢献するに至り、外客誘致による外貨獲得と我が国の国情の海外への紹介が国策として取り上げられるようになった。このような状況から、我が国でも初めて観光立国政策が推進されることとなり、政府による低利融資を受けて多くの近代ホテル群が全国各地に出現することとなった。
その一方で、これらのホテル群や関連観光施設の経営を成り立たせる上では、国民による安定的な利用を基盤とする必要があった。また、外国人と接する国民に対して、観光への認識や資源保護思想の普及、モラル向上に向けた啓発が必要となってきた。このため、次第に国民への観光旅行の普及にも力が注がれるようになっていった。
このような近代日本の観光産業の発展を象徴する代表的遺産は、現在でも創業時の建物が現存している近代ホテル群であり、日光の「金谷ホテル」や箱根の「富士屋ホテル」、六甲の「六甲山ホテル」など、その多くは外国人居留地やその近郊リゾート地に建設されたものである。また、中には、国営(鉄道省直営)として迎賓館的役割を担った「奈良ホテル」や北海道開拓事業の成果の象徴として建てられた札幌の「豊平館」、軍港から貿易港への変革を目指した大規模な都市計画に基づいて建設された「大湊ホテル」、アメリカ人建築家のフランク・ロイド・ライトからその弟子である遠藤新への建築技術の継承と昇華の軌跡を写す「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」など、個々に興味深い背景を持つものもあり、各建築物の設計思想やデザインの中に創業時の時代背景や我が国の近代建築の変遷等を読みとることができる。
また、ホテルは単に宿泊施設というだけでなく、人や文化の出会いの場としての機能を有していたことが、この時代の多くのホテルでのエピソードから伺い知ることができるが、特に洋式ホテルにレストランの運営が許されていたことが、出会いの場を大きく広げるきっかけとなった。各ホテルでは競うように豪華な大食堂をつくり、当時では珍しい本格的な西洋料理を提供することで海外から多くの賓客を集め、彼らとの情報交流や交渉の場を求めて国内政財界の大物がホテルのレストランに集まるようになった。ホテルという舞台がこの時代を動かした多くの人を結びつけ、ホテルを介して築かれたネットワークにより様々な歴史の物語が生み出されていった。

中禅寺湖畔の旧外国大使館別荘群栃木県日光市中禅寺湖畔
避暑の習慣をもつ外国人にとっては、長期にわたって滞在するにはホテルの一室ではなく、もっと広くゆったりした日常生活を送れる場所を求める者も多かった。明治も20 年代に入ると、日本人名義で家屋を所有する外国人も増え、日光市内にも観光客が増えていくと、それを嫌って奥日光に避暑地を求める外国人が増えるようになる。この頃から中禅寺湖畔には各国大使館の別荘が建てられるようになり、最盛期の大正時代には13 ヵ国、40 余棟の別荘が建ち並び、避暑地外交も盛んに行われていた。
特に、奥日光に外国人を惹きつける大きな魅力のひとつが、明治期以降にマス類を中禅寺湖に移入することによって可能となったマス釣りであり、これは日本で外来種移入が既に明治期から行われていたという一つの実例でもあるが、毛針を使ったマス釣り(アングリング)が欧米人にとっては紳士の身だしなみとして広く普及していたため、新たな観光資源の開発にもつながった事例としても大変興味深い。
当時、特にマス釣りに強い愛着をもって奥日光に何度も通った著名人には、長崎のグラバー邸で知られるトーマス・ブレーク・グラバーや、神戸でハンター商会を創立したハンス・ハンターなどがいた。中禅寺湖畔に現存する当時の外国大使館別荘には、イギリス大使館別荘、イタリア大使館別荘、ベルギー大使館別荘等があるが、そのうち、イタリア大使館別荘については、現在では記念公園として整備・修復され、一般にも広く公開されている。
  • 5-a 日光金谷ホテル本館/栃木県日光市
  • 5-b 富士屋ホテル本館/神奈川県足柄下群箱根町
  • 5-c 箱根登山鉄道 早川橋梁(通称「出山の鉄橋」)/神奈川県足柄下群箱根町
  • 5-d 碓氷峠鉄道施設群/長野県北佐久群軽井沢町、群馬県安中市
  • 5-e 奈良ホテル/奈良県奈良市
  • 5-f 旧甲子園ホテル(現 武庫川女子大学甲子園会館)/兵庫県西宮市
  • 5-g 帝国ホテル中央玄関(移築/博物館明治村ライト館)/愛知県犬山市
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出典:経済産業省作成「近代化産業遺産群33」

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