HERITAGE OF MODEARNIZATION Story.09 有数の金属供給源として近代化に貢献した東北地方の鉱業の歩みを物語る近代化産業遺産群

持てる資源を活かす

かつて日本有数の鉱山地帯であり、多様な金属が採掘されていた東北地方。明治維新後、新政府はこれらの鉱山の本格的な開発に着手した。小坂、阿仁、院内では、外国人技師を招聘し近代的な採掘や製錬などが行われた。また、尾去沢、松尾、細倉などでは、民間資本の努力により独自の近代化が図られた。
東北各地では、有数の金属供給源として、我が国近代産業の発展を支えた、数々の鉱山や鉱山を取り巻く人々の暮らしの跡を辿ることができる。 このストーリーの近代化産業遺産例

東北地方は、かつて我が国有数の鉱山地帯であり、江戸時代には既に鉄、銅、鉛、亜鉛、金、銀などの多様な金属が採掘されていた。古くは尾去沢鉱山(秋田県鹿角市)で産出された金が中尊寺の金色堂に使われたといわれる。
明治維新後、新政府はこれらの鉱山の本格的な開発に着手した。金・銀が鋳貨の原材料、銅・鉛・鉄・石炭が輸入の抑制、鉄はさらに軍事機構の確立というように、産出する鉱物によって、それぞれの政策的意図のもと、官営鉱山として政府による経営が行われた。
官営鉱山となり、欧米の技術を積極的に導入して機械化を進め、経営基盤の確立を行った主な鉱山としては、小坂鉱山、阿仁銅山、院内銀山が挙げられる。官営鉱山は民業を指導すべき模範的経営と称し、操業の規模は壮大を極めるものであったが、一方で収支は良好とは言えなかったため、1885 年の工部省の廃止に先立ち、民間に払い下げられることとなった。この後は、民間資本の下、経営の合理化、新技術の導入により産出量の増加が図られた。
小坂鉱山(秋田県小坂町)は1869 年に官営となり、外国人技師クルト・アドルフ・ネットーがドイツ式の溶鉱炉を設置するなど、近代的な生産技術の基礎が築かれた。その後、「日本鉱業界の父」と呼ばれる大島高任が新製錬法を導入し銀生産量日本一となり、1884 年に藤田組に払い下げられた後は、第3 代所長久原房之助等が黒鉱自溶製錬に成功し銀山から銅山へ生まれ変わった。久原は、上水道整備、病院や劇場建設など小坂町の都市機能の整備も行った。また、同鉱山の電気主任技師小平浪平は、1906年に日立鉱山に移り、後に㈱日立製作所を創設し日立グループの基礎を築くこととなった。
阿仁銅山(現:秋田県北秋田市)は、官営時にドイツ人アドルフ・メッケルらを招聘し、新式製錬所を整備するなど設備の近代化を進めたが収支が合わず、1885 年に古河市兵衛に払い下げられた。古河のもと、新たな坑道の開設、設備の電化、製錬設備の充実化が図られ、1891 年から1917 年にわたり、銅産出の最盛期を迎えた。
院内銀山(秋田県湯沢市)は、1875 年に工部省に移され、4名の外人技師を傭聘するとともに巨大な投資により経営の近代化が進められた。しかし、損失が続いたため、1884 年に、古河市兵衛に払い下げられた。その後、坑道の整備、電気力を導入した後、院内銀山の出鉱量は増加の一途をたどり、明治中期には国内第4位の産出高を誇った。
一方、官営化によらず民間資本により独自に近代化を推し進めた鉱山としては、尾去沢鉱山、松尾鉱山、細倉鉱山等が挙げられる。
尾去沢鉱山(秋田県鹿角市)は、明治維新後地元資産家による経営が行われたが経営難となり、1886年に岩崎家が資金提供し経営にあたることとなった。引き続き、1893 年に三菱合資会社の経営となり、坑内操業方法の見直し、碇発電所建設による全山電化などの急速な近代化により、出鉱量を増加させた。
また、尾去沢鉱山は鉱脈型銅鉱床と呼ばれ板状を呈する鉱脈を採掘した国内有数の鉱山であり、大規模なシュリンケージ採掘法により採掘されていた。
松尾鉱山(岩手県八幡平市)は、1882 年に硫黄鉱床の大露頭が発見され、1911 年に岩手鉱業組合が設立されたことにより本格的な採掘が始まった。当時の国内硫黄生産のうち約50%を供給し、東洋一の硫黄鉱山といわれた。
細倉鉱山(宮城県栗原市)は、幕末から民間による小規模な経営が続いていたが、1890 年に細倉鉱山会社が設立され、近代産業としての基礎を確立した。大島高任の長男である大島道太郎が坑内設備等の建設にあたった。1895 年に粗鉱出鉱ならびに鉛、銀の生産額が伸び、この年の鉛の生産額は日本一となった。また、1898 年には、高田慎蔵が事業一切を譲り受け、以後高田鉱山として経営を行うこととなった。
その後、亜鉛の軍需が高まり、1915 年、山本豊次所長が亜鉛の電気分解に成功、猪苗代湖の発電事業から電力を得て、電解亜鉛生産によって1917、1918 年に再び最盛期を迎えた。また、同時期の1918 年に、栗原軌道㈱(後の くりはら田園鉄道㈱)が設立された。同社は、既に開業していた東北本線石越駅と細倉鉱山駅の間をつなぐ路線を営業し、同鉄道により先の最盛期時の亜鉛輸送が支えられた。その後も、鉱石や物資の運搬、住民の通勤・通学に多大な貢献をした。
以上のように、東北地方の鉱山は我が国有数の金属供給源として、明治初期の「富国強兵」「殖産興業」政策に貢献し、近代産業の発展を支えていった。

幕末の鉱山の姿を活き活きと伝える「門屋養安日記」秋田県公文書館所蔵
東北地方の鉱山の中には、江戸期以前からの長い歴史を持つものが数多く存在する。現在の秋田県湯沢市にあった院内銀山もそれらの一つであり、1606 年に発見されて以来、江戸時代を通じて秋田藩によって採掘が行われた。そして、江戸後期には秋田を凌駕する藩内で最も大きな街が形成され、「出羽の都」と呼ばれるほどの繁栄を誇った。
久保田藩から院内銀山に派遣された医師の門屋養安は、幕末の1835 年から1867 年までの32 年間にわたって銀山に滞在し、医療活動だけではなく鉱山の経営にも携わり、その経験をもとに克明な日記を記した。この「門屋養安日記」には、銀山の経営や技術から、季節の風物詩、行催事、病気と治療、天災、衣食住などが事細かに記されており、幕末の院内銀山の姿を活き活きと伝える貴重な資料となっている。
今日では、日記の実物が秋田県公文書館に展示されている。また、日記をテーマとした書籍が出版されたり、著者の養安をモデルとした演劇が制作されるなど、日記に描かれた幕末の院内銀山の姿は、今なお人々の興味を惹きつけている。
  • 9-a 小坂鉱山事務所(移築)/秋田県鹿角郡小坂町
  • 9-b 康楽館/秋田県鹿角郡小坂町
  • 9-c 尾去沢鉱山坑道内部/秋田県鹿角市
  • 9-d 松尾鉱山露天掘跡地/岩手県八幡平市
  • 9-e 細倉鉱山選鉱場跡/宮城県栗原市
  • 9-f くりはら田園鉄道/宮城県栗原市
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出典:経済産業省作成「近代化産業遺産群33」

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