HERITAGE OF MODEARNIZATION Story.13 『上州から信州そして全国へ』近代製糸業発展の歩みを物語る富岡製糸場などの近代化産業遺産群
開国後の我が国にとって、生糸は外貨獲得のための重要な輸出品であった。しかし、その生産は人力や小規模な器械によっており、また、輸出という新たな市場の出現が粗製濫造を招き、欧州産の生糸に比べて品質が著しく劣ると評価されていた。このような中、政府は、高品質の生糸を安定的に生産することを目的に、近代製糸技術の模範工場として官営富岡製糸場を建設する。そこで培われた技術は、その後、上州の他の地域や信州、さらには全国へと広がり、各地に製糸企業が興っていった。また、これら製糸企業の経営者には、事業の発展を支える存在として労働者の福利厚生や地域との共生に力を注いだ者も現れた。 このストーリーの近代化産業遺産例
開国後の我が国にとって、絹(生糸)は外貨獲得のための重要な輸出品であった。しかし、その生産が人力や小規模な器械によるものであり、また輸出という新たな市場の出現が粗製濫造を招き、欧州産の生糸に比べて品質が著しく劣ると評価されていた。そこで明治政府は、高品質の生糸を安定的に生産することを目指して、フランス人技師ポール・ブリューナを雇い入れ、近代技術の導入による模範工場として、1872 年に官営富岡製糸場を建設した。ここで生産された生糸は、1884 年に高崎まで開通した日本鉄道(現:JR高崎線)を経由して輸出港である横浜まで運搬された。また、1877 年には、富岡製糸場等から出る屑糸等から絹糸(紡績絹糸)を作る旧内務省勧業寮屑糸紡績所(新町紡績所)が建設され、上州の地場産業である太織絹織物(銘仙)の材料を供給した。
また、同時期には製糸の発達と併行して養蚕技術の発展も図られた。群馬県では高山社、埼玉県では競進社という養蚕改良普及組織が結成され、室温管理による養蚕飼育法の普及や、養蚕教員の養成、繭や桑などの品種の改良などが行なわれた。群馬県各地や埼玉県北部には、これら養蚕結社が編み出した飼育法に適した養蚕住宅や専用の蚕室が多く普及し、原料品質の面から製糸業の発展を支えた。
富岡製糸場の影響を受けて、1880 年前後には、上州や信州の各地でも小規模な器械製糸が次々と興った。その中で、長野県の諏訪地域の製糸家たちは、既に須坂で試みられていた製糸結社を組織して横浜の生糸問屋と直接の取引を行うとともに、連帯責任により無担保融資を受けて設備を拡充するという手法で生産量を拡大した。また、1893 年に官営鉄道中山道線(現:JR信越本線等)の碓氷峠区間が開通し、1896 年に諏訪からの輸送ルート上に大屋駅(我が国初の請願駅)が設置されると、横浜までの輸送時間が大幅に短縮され、輸出相場に対応した出荷が可能となった。こうして諏訪地域は、明治後期には全国一の生糸産地へと成長し、我が国を世界最大の生糸生産国へと押し上げる原動力となった。
その後、信州の製糸家は、初代片倉兼太郎が創設した片倉組(後の片倉製絲、現:片倉工業㈱)に代表される大企業へと統合され、技術革新による増産が進み、原料繭の輸送難を解決するために全国各地に工場を展開した。また、京都府の綾部では、1896 年に信州等への視察を契機として波多野鶴吉らにより郡是製絲(現:グンゼ㈱)が設立された。郡是製絲は製糸技術の改良や「正量取引」による優良繭の確保等を通じて、優良生糸を生産し、米国スキンナー商会と特約販売を行うなど内外の信用を獲得し、片倉製絲と並び称される存在へと成長した。
他方、明治期の上州においては上記のような工場製糸発展の流れとは別に、安中の碓氷社に象徴されるような養蚕農家らによる組合製糸発展の流れがみられた。製糸組合では、各農家が座繰りで繰った生糸を、共同で「揚げ返し」(繰り直し)を行う「改良座繰り」により製品の規格や品質を管理し、さらに、共同での出荷・販売を通して、独特の発展を遂げた。碓氷社は最盛期には3 万人を超す組合員を有し、同時期の輸出用生糸の生産に大きな役割を果たした。
大正期以降には、片倉組(片倉製絲)、郡是製絲といった大企業を中心として技術革新による増産が進むと、製糸工場の創設、合併、吸収、集中がさらに盛んになった。このような中で、比較的後発であるが高知県においては藤村製糸が創業され、四国を中心に発展し輸出生糸の生産を担った。
なお、これらの製糸企業の経営者たちは、事業の発展を支える存在として、労働者の福利厚生や地域との共生に力を注いだ。片倉組の二代目片倉兼太郎は、欧米への視察旅行で訪れた地域の文化・福祉施設に感銘を受け、このような施設を地元の諏訪に造ろうと考え、諏訪湖畔に温泉大浴場や文化交流・娯楽空間を備えた片倉館を完成させた。また、郡是製絲は、創業理念である「人間尊重」、「優良品の提供」、「共存共栄」の3つの精神を踏まえ、工女教育を目的にした郡是女学校や、地域の医療施設である郡是病院などを設立した。
昭和初期には、世界恐慌による糸価の下落や人絹糸の進出により、生糸は広幅織物方面の用途からの撤退を余儀なくされ、新たに「婦人向くつ下」にその用途を求めた。大企業はこうした需要の変化に対応し、高級くつ下の原料となる高級生糸生産に向けて、片倉製絲が御法川式多条繰糸機を導入したことを皮切りに、設備機器の合理化、近代化が進められ、生糸生産効率や品質が飛躍的に高められていった。
このように、不況および人絹糸の登場が、逆に生糸生産を発展させる契機となり、日中戦争の開始やナイロンの登場までの間、生糸輸出は増大していった。
- 13-a 旧富岡製糸場/群馬県富岡市
- 13-b 新町紡績所内部/群馬県高崎市
- 13-c 諏訪式繰糸機(岡谷市立岡谷蚕糸博物館所蔵)/長野県岡谷市
- 13-d 旧山一製糸旧牧新七家住宅/長野県須坂市
- 13-e 笠原工業(株)繭倉/長野県上田市
- 13-f グンゼ記念館/京都府綾部市
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出典:経済産業省作成「近代化産業遺産群33」
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