HERITAGE OF MODEARNIZATION Story.16 激しい産地間競争等を通じ近代産業へと発展した利根川流域等の醸造業の歩みを物語る近代化産業遺産群

競争と進化

江戸時代、利根川流域の治水工事が完成し、北関東や東北方面から江戸への河川による物資輸送が可能になると、大消費地に近く、原材料の輸送にも適し、良質な水と温暖多湿な気候に恵まれた野田や銚子などの利根川・江戸川流域では醸造業が興隆した。これら利根川・江戸川流域の醸造業の近代化は、野田で醤油醸造業界初の試験場が設置され、醸造業に化学分析の考え方が持ち込まれたことに始まる。その後、この地では、野田と銚子という醤油の二大産地を始めとする産地間の激しい競争が行われ、このような中、技術改良、生産施設の統合、物流・金融基盤の整備などが進み、利根川・江戸川流域の醸造業は伝統産業から近代産業へと変貌を遂げていく。 このストーリーの近代化産業遺産例

江戸時代に利根川流域の治水工事が完成し、北関東や東北方面から江戸への河川を利用した舟運による物資輸送が可能となると、大消費地に近く、原材料の輸送にも適し、また、良質な水と温暖多湿な気候にも恵まれたことから、野田と銚子の醤油を筆頭に流山の味醂や神崎の清酒といった醸造業が利根川や江戸川沿いで興隆した。
特に醤油醸造業は、江戸の人口増加と醤油利用の高まりから江戸時代中期には本格的な醸造が行われるようになり、19 世紀には関西からの下り醤油に代わって、野田や銚子などの関東産の醤油が江戸の市場を独占することとなった。近代に入ると、外輪船「通運丸」が1877 年、両国日本橋から利根川筋の大越まで就航し、その後も関宿を経て境・佐原・銚子に至る新たな航路が開かれるなど輸送力も増強された。水運の近代化の動きと前後し、銚子では十代田中玄蕃が醤油の需要増加に対応するため、水量豊富で良質な水源を地下水に求め1868 年に煉瓦造の竜の井(通称「玄蕃井戸」)を設置した。また、利根川・江戸川沿いでは、明治期には近代化の進む水運を利用するため、フジハン醤油旧米倉のような回漕業者や運送業者の倉庫などが沿川各地で建てられていった。
この地域における醸造技術の近代化は、1887 年に野田の六代茂木七郎右衞門が醤油醸造業界最初の試験場を設置して化学分析を始めたのが契機である。その後、1899 年に銚子のヤマサ醤油十代濱口儀兵衛が醤油醸造を科学的に解明するための醤油研究所を設立すると、5 年後の1904 年には野田においても野田醤油醸造組合が野田醤油醸造試験所を設立し、試験醸造・種麹の改良等の研究開発を進めたことなどにより、近代産業として科学に裏打ちされた技術が蓄積されていった。
また、醸造技術以外の分野でも野田と銚子は競争を展開した。東京により近い野田は、明治初期まで製品出荷の物流面で銚子に比べ優位に立っていた。その後銚子は、1890 年の利根運河の開削により東京までの輸送時間を短縮した。また同年に、銚子の十三代田中玄蕃らは総武鉄道㈱を設立して1894 年に市川~佐倉間で開業、その3 年後に銚子まで延伸して東京までの鉄道輸送を可能とし、天候・河川流量に左右されない安定した輸送手段を確保した。これに対して野田では、江戸川沿いで上河岸の戸邉家・下河岸の桝田家が河岸問屋として回漕業を営んでいたが、1900 年に、各醸造場と製品を積み出すこれらの河岸を大型トロッコで結ぶ野田人車鉄道を敷設、同年、事業の近代化や関連事業の資金調達手段として野田商誘銀行を設立して、物流・金融基盤の強化を図った。その後陳情が実り、1911 年に野田―柏間に千葉県営軽便鉄道が開通すると、同時に陸送会社を設立し、常磐線を利用して短時間で東京へ出荷できる鉄道輸送が行われるようになった。さらに、1913 年には人車鉄道を野田町駅(現:東武鉄道野田市駅)構内へと延伸した。
野田醤油醸造組合は、このような産地間競争が続く中で産地内の協力を図るため1887 年に野田・流山の醸造家17 軒を組合員として設立された。前述のような新たな事業はこの醸造組合が中心となって展開した。銚子においても同様に、醤油醸造元である濱口家・田中家・深井家が合同して1914 年に銚子醤油合資会社(現:ヒゲタ醤油㈱)を設立した。
その後、第一次世界大戦1914~1918 年の影響による好景気によって生産量を急速に拡大し、野田は我が国最大の醤油醸造業地となっていった。その一方で、野田醤油醸造組合においては、それまでの手作業中心の醸造方法や、個人経営時代からの昔ながらの経営方針を見直す必要が生じ始めた。野田の醤油醸造は山下平兵衛家(現:キノエネ醤油㈱)を除けば、茂木家・髙梨家の一族によって行われていたため、1917 年、事業統合により同族間の無用の競争を避けるため、醸造家の8家が合同し、造石高20万5468 石の野田醤油㈱(現:キッコーマン㈱)を設立。順次、商標を主力商品に集約しつつ、個人時代の生産施設を統合していった。なかでも、1926 年に竣工した鉄筋コンクリート一部3階建ての第17工場(現:野田工場)は、最新機器を導入した国内最大の醸造工場として同社の主力工場となった。しかし、新たな生産技術の導入は醸造業の労働事情にも変化をもたらした。その結果、1927 年9 月から218 日間に渡る、戦前最長の労働争議が生じたが、この争議を経て醤油醸造業は旧来からの伝統産業から、近代的な雇用関係を整えた近代産業へと大きく変貌を遂げた。
このように利根川・江戸川流域の醤油醸造業の近代化の歴史は、優勢な醤油醸造家が野田と銚子という同じ県内の2大産地間で競争し、現代に通じるR&D やM&A に真剣に取組んだ歴史でもあり、その所産として伝統産業が近代的な産業に変貌を遂げたといえる。

  • 16-a 下河岸(仁左衞門河岸)/千葉県野田市
  • 16-b 上河岸(五右衞門河岸)/千葉県野田市
  • 16-c 旧野田商誘銀行(現千秋社)/千葉県野田市
  • 16-d 興風会館/千葉県野田市
  • 16-e キノエネ醤油工場群/千葉県野田市
  • 16-f キッコーマン 煉瓦蔵/千葉県野田市
  • 16-gキッコーマン 製造管理部事務所/千葉県野田市
  • 16-h 利根運河/千葉県野田市、柏市、流山市
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出典:経済産業省作成「近代化産業遺産群33」

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