HERITAGE OF MODEARNIZATION Story.21 我が国モノづくりの中核を担い続ける中部地域の繊維工業・機械工業の歩みを物語る近代化産業遺産群
東京と大阪の中間に位置した中部地域においては、「御上」の力に頼らない「自前主義」の精神が育まれた。そしてこの「自前主義」を貫くのに必要な高い志としたたかな戦略が、近代化の流れの中で、「技術力」と「マーケティング力」の融合という中部のモノづくりに特有の構造を生み出していった。有数の綿業地であった中部地方では、繊維産業が明治・大正・ 昭和期を通じて成長を遂げ、革新的な繊維関連機械などが次々と世に送り出された。こうした動きは、時代を先取る形で、豊田の自動車やブラザーのミシンなど、様々な機械工業の新展開へと繋がり、我が国のモノづくりの中核を担い続ける今日の中部地域の基礎が固められていく。 このストーリーの近代化産業遺産例
近代化という大きな流れの中で、東京と大阪の中間に位置した中部地域においては、「御上」の力に頼らないという「自前主義」の精神が育まれた。そしてこの「自前主義」を貫くのに必要な高い志としたたかな戦略が、「技術力」と「マーケティング力」の融合という中部のモノづくり特有の構造を生みだしていった。こういった中部のモノづくりにおける精神等は今も中部地域の各企業の中に息づいている。
古くからの綿の産地であり、「知多木綿」「三河木綿」として我が国でも有数の綿業地であった愛知県においては、1877 年に第1 回内国勧業博覧会で最高賞を受賞した臥雲辰致の「ガラ紡績機」の発明が、繊維工業・機械工業の近代化に向けた一つの大きな転機となった。当時特許による発明の保護がなかったこともあり、在来の木工技術を基盤とした模倣により、三河地域を中心として「ガラ紡」は急速に普及し、さらに水車動力の採用と船に水車を取り付け船中に紡機を設置して水量豊富な矢作川などの河川につなぐ「船紡績」への技術発展により、三河のガラ紡績は1887 年頃に細糸時代の最盛期を迎えることとなった。一方、明治政府は、近代紡績業の普及を図るため、1881 年に官営愛知紡績所を開設したが、その後紡績業は官営から民間資本に移り、大阪紡績などの成功により関西や中部地域を中心に大規模な紡績会社が次々と設立された。これらの会社で製造された斉一で引張力に強い機械紡糸は、動力織機での使用に適していたため、後述するような国産動力織機の技術開発と普及に伴って需要が高まり、ガラ紡績に取って代わることとなった。そこで、ガラ紡績は足袋裏や布団袋などの太糸領域に方向転換し、その後も生産高を伸ばして戦後の衣料不足を支え、現在でも手紡糸の風合を残す素朴さが好まれ、少数ではあるが現役で稼働している。
織布部門においては、豊田佐吉が1880 年代半ばから織機の改良を行い、1890 年にバッタンを改良して織機をつくり、さらに1896 年についに動力織機をつくりあげた。この木鉄混製動力織機(豊田式汽力織機)の開発は国産綿布が輸入をしのぎ国内市場を制圧するという国内綿織物業の発展をもたらしたのみならず、現在の中部地方における機械工業の萌芽ともなったものである。豊田式汽力織機は比較的安価であるにも関わらず生産性は格段に向上したことから、この織機の発明で豊田佐吉は大成功をおさめ、その販売利潤をさらなる開発研究に注ぎ込み、小幅木鉄混製織機(豊田式軽便織機)を経て、1908年についにH式広幅鉄製織機を完成させ、外国製品と対抗できる機械製造技術を獲得することとなった。
この広幅鉄製織機は当時すでに成立していた大規模な紡績兼営織布会社に採用された。
1920 年代に入ると、広幅鉄製織機の大量生産技術を確立した豊田佐吉は、長年研究を重ねてきた自動織機の開発に本格的に取組み、1924 年に息子である喜一郎の協力を得て、G型自動織機(無停止杼換式豊田自動織機)の開発に成功し、2 年後に、㈱豊田自動織機製作所を設立してG型自動織機の生産・販売に着手した。豊田の杼換式自動織機技術が当時世界のトップ水準に到達したことは、1929 年にイギリスのプラット社がこの技術に対する特許権を買い求めたことからも明らかであった。一方、紡績機械は、豊田式織機㈱が輸入紡績機の修理から部品製造メーカーに成長した木本鉄工所を買収して紡績機械の製作にも乗り出し、1921 年に紡績システムすべての国産化にも成功した。これらの技術開発に支えられ、中部地方では繊維産業が明治、大正、昭和期を通じて、紡績業、綿織物業、さらには毛織物業へと成長を遂げ、国内外で競争力を持つ高付加価値の繊維関連製品が次々と世に送り出されていった。
特に毛織物業については一宮を中心とする尾張西部地域において急激に発展した。
その後、満州事変の勃発を背景とした自動車の国産化の要請による「自動車製造事業法」制定の動きを好機ととらえた豊田喜一郎は、自動車製造に着手することを決意し、自動織機の特許権の売却で得た資産を元手に自動車の開発に乗り出すこととなった。そして1935 年にはトヨダG1 型トラックを、翌11 年には初の大衆車であるトヨダAA型乗用車を完成させ量産を開始するとともに、自動車製造に必要な機器や素材等の自社製造を開始した。これらの自社製造部門は後に独立し、今日の中部地方のモノづくりの一翼を担う企業へと成長した。
また、豊田を中心とした繊維関連機械の開発・製造が進められる一方で、小さな輸入ミシンの販売・修理会社だった「安井ミシン兄弟商会」では、安井兄弟が力を結集させて1928 年に麦わら帽子製造用の環縫いミシン国産化に成功、次いで1933 年には念願の国産家庭用ミシンを完成させると、翌34 年には家庭用ミシンの量産化を開始し、社名も現在のブラザー工業の母体である「日本ミシン製造㈱」に改
めた。
豊田やブラザーのみならず、中部地域においてはこの時期に他の機械工業も大きな発展を遂げ、今日の「中部のモノづくり」の基礎が築かれた。この時期に創設された機械メーカーの多くは、それぞれ独自の発展を遂げ、現在では世界のトップメーカーに成長している。
- 「文化のみち」:中部の近代産業を支えた偉人達の居住跡群愛知県名古屋市東区
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明治維新以降、新進の実業家たちは、もともとは中級武士や大名の屋敷のあった場所を利用して、工場や邸宅を建てるようになった。その代表的な住人が、「発明王」豊田佐吉、弟佐助、娘婿の利三郎、「ノリタケ」の創設者・森村市左衛門、「電力王」福沢桃介と我が国初の女優・川上貞奴などである。そのため、この界隈には多くの財界人や文化人が集まるようになり、様々なサロンが開かれ、彼らの重要な情報交換の場となっていた。
「文化のみち」には福沢桃介が川上貞奴と暮らした「二葉邸」の他、「旧豊田佐助邸」「百花百草」「橦木館」など、一般公開されている施設も数多くある。
- 21-a 豊田自働織布工場(現産業技術記念館)/愛知県名古屋市西区
- 21-b ガラ紡績機(産業技術記念館所蔵)/愛知県名古屋市西区
- 21-c 環状織機(産業技術記念館所蔵 )/愛知県名古屋市西区
- 21-d 無停止杼換式豊田自動織機(G型)(産業技術記念館所蔵)/愛知県名古屋市西区
- 21-e トヨダスタンダードセダンAA型(産業技術記念館所蔵)/愛知県名古屋市西区
- 21-f 麦わら帽子製造用環縫ミシン(ブラザーコミュニケーションスペース所蔵)/愛知県名古屋市瑞穂区
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出典:経済産業省作成「近代化産業遺産群33」
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