HERITAGE OF MODEARNIZATION Story.22 『羽二重から人絹へ』新たなニーズに挑み続けた福井県などの織物工業の歩みを物語る近代化産業遺産群
福井地方は、昼夜の乾湿差が少ないことから、江戸時代から高い品質と豊富な生産量を誇る絹織物の産地として知られており、明治維新後の殖産興業においては、絹織物製造業の振興が大きな課題となった。明治の初期には、輸出が好調な羽二重の生産技術の導入と普及が図られ、その後、福井県の絹織物生産額は全国第一位となる。また、欧米諸国への羽二重輸出の凋落が始まると、羽二重から人絹への転換が図られ、昭和初期にはアジア・オセアニア等への輸出人絹織物の筆頭産地へと急成長を遂げる。福井地方は、時代を超えて織物の主要産地であり続けたが、その背景には、新たなニーズに着目し、国内外から時々の先進技術を導入し、時代の変化に柔軟に対応してきた先人達の工夫があった。 このストーリーの近代化産業遺産例
福井地方は、昼と夜の乾湿の差が少ないことから絹織物製造に非常に適した土地であり、江戸時代には高い品質と豊富な生産量を誇る産地として知られていた。このため、明治維新後の殖産興業においても、絹織物製造業の振興は大きな課題であった。
1871 年、「五箇条の御誓文」の草案者である旧福井藩士の由利公正が、欧州から絹織物数種を持ち帰り、酒井功ら福井の有志に見せて新しい絹織物の考案を依頼したことから技術研究が始まった。その後、酒井は敦賀県庁に対して、県費による絹織物の先進地域・京都への伝習生派遣とバッタン機2 台の購入を請願し、これが実現した。この事業は敦賀県の消滅によって頓挫したが、酒井は有志と共に技術改良を進め、1877 年に「織工会社」を開業した。また、同社からの伝習をうけて福井県内にハンカチーフや傘地の製造会社が設立された。
1880 年代に入ると、羽二重(純白の滑らかで光沢のある平織絹織物)の輸出貿易が好況であったことや、ほぼ同じ時期に、外国貿易商から県内に羽二重の注文が入ったことを背景として、羽二重製織技術の導入に向けた機運が高まり、1886 年には先進地・桐生の森山芳平の工場から高力直寛を招聘して伝習を受けた。また、羽二重の製品化に不可欠な精練(漂白や染色を完全に行うために不純物を除去する工程)の技術を習得するため、染色技術者を桐生に派遣した。これらによって獲得した羽二重の生産技術は、福井県内一円へと急速に広がり、1890 年代前半には福井県の絹織物の生産額が群馬県を抜いて全国第1位となった。また、この動きは従来から絹織物の産地であった石川県に広がり、北陸地方は全国有数の輸出羽二重の産地として躍進した。このような中で福井県は、製品の品質を確保し産地としての信用を高めるために、1893 年に福井市に検査所本所を、武生・粟田部・鯖江・丸岡・大野・勝山・小浜に出張所を設置し、精練工場より製品を運ばせて検査を行うことにした。
その後、欧米諸国の不況や競合製品の出現等により、明治末期には輸出用羽二重の生産が一時的に停滞期を迎えたが、ちょうどその頃、京都電灯や越前電力による水力発電所の建設と送電網の拡大を背景として電動式力織機が爆発的に普及し、県内各地に大規模な機業場が創設され、大正初期には再び生産量を大きく伸ばした。特に、勝山では、従来の主要産品であったタバコが専売制となったこともあり、タバコ産業の多くの事業主が織物製造業に転身した。その具体的な動きとして、1904 年の木下機業場(現:勝山市旧機業場)の建設や、1910 年の兄弟商会(現:ケイテー㈱)の設立などが挙げられる。
また同じ頃、国が主力輸出品である絹織物の品質を確保するために「輸出羽二重取締規則」及び「輸出羽二重精練業法」を制定したことを踏まえ、福井県は、精練方法の統一によって品質改善をはかるため精練工場の統合に乗り出し、1911 年には「福井県精練㈱」によって県下の羽二重精練工場が統合され、精練工程の近代化が進んだ。
しかし、このような好況は長くは続かず、1920 年の恐慌を契機として欧米諸国への羽二重輸出の凋落が始まった。ちょうどその頃、世界的に人絹(人造絹糸=レーヨン)の普及が進みつつあり、国内でも米沢で我が国初の人絹製造に成功し、この技術を活用して東工業米沢人造絹糸製造所(現:帝人㈱)が本格的に人絹の工業生産を開始するなど、人絹製造業の勃興が見られた。そこで、福井県を始めとする北陸地方では、従来から導入していた力織機等の近代設備を活かして羽二重から人絹織物への転換を図り、その中でさらなる工場の大規模化により経営効率化を進め、昭和初期にはアジア・オセアニア等への輸出人絹織物の筆頭産地として急成長を遂げた。
一方、その頃アメリカでは画期的な合成繊維であるナイロンの工業生産が始まり、我が国の繊維関係者に大きな衝撃を与えた。しかし、1930 年代後半になり戦時体制が濃くなると、北陸地方を始めとする我が国の繊維産業は事業そのものの縮小を余儀なくされた。また、空襲と戦後の福井地震で生産設備の多くが破壊され、さらにナイロン対策の遅れで戦後の輸出も振るわなかったため、北陸地方の繊維産業は厳しい状況にさらされた。
それでも、朝鮮戦争による特需を境に目覚しい回復を遂げ、その後もナイロンやポリエステル等の合成繊維織物へのシフトや、高付加価値製品の開発と徹底したコストダウン等の努力によって、北陸の繊維産業は、今日においても地域を特徴づける基幹産業であり続けている。
このように、伝統的な絹織物の産地であった北陸地方が、近代、そして現代を迎えても織物の主要産地であり続けた事実の背後には、地場産業を原点としつつも新しいニーズに着目し、国内外から時々の先進技術を積極的に導入し、時代の変化に柔軟に対応してきた先人達の工夫があった。
- 我が国における人絹製造の原点を物語る石碑山形県米沢市
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ヨーロッパでは、絹が貴重品で非常に高価であったため、19 世紀後半から人造絹糸の開発に向けた研究が行われるようになった。そして20 世紀初頭には木材パルプを原料とした人造絹糸、「レーヨン」の工業生産が始まり、我が国にも輸入されるようになった。
こうした中、米沢高等工業高校(現:山形大学工学部)の講師であった秦逸三は、人絹の国産化に向けた研究に取組み、1913 年には実験を一般に公開し、「木から絹ができる」と人々を驚かせた。
そして1915 年には、研究を援助してきた鈴木商店の子会社・東工業が、秦を工場長として米沢人造絹糸製造所(後の帝人㈱米沢工場)を設立し、人絹の工業生産を開始した。この頃、第一次世界大戦による欧州からの人絹輸入が減少し、また、福井県等における人絹織物業の発展により需要が高まったことを背景として、昭和初期にかけて順調に生産量を拡大した。
米沢の工場は戦後に閉鎖されたが、その跡地に立つ「人絹工業発祥の地碑」は、大正後期から昭和初期にかけての繊維産業の発展を支えた人絹製造の原点を示すものであり、先人の努力を今日に伝えている。
- 22-a 旧福井精練加工株式会社(セーレン本館)/福井県福井市
- 22-b 旧鯖江地方織物検査場/福井県鯖江市
- 22-c 勝山市旧機業場/福井県勝山市
- 22-d 松文産業(株)旧女子寮/福井県勝山市
- 22-e バッタン機(ケイテー資料館所蔵)/福井県勝山市
- 22-f 深田久弥山の文化館(旧山長織物事務所・石蔵・門)/石川県加賀市
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出典:経済産業省作成「近代化産業遺産群33」
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