HERITAGE OF MODEARNIZATION Story.23 輸出製品開発や国内需要拡大による中部、近畿、山陰の窯業近代化の歩みを物語る近代化産業遺産群

生活の変化を新製品に

我が国の近代窯業は、我が国の近代化に伴う国民の生活様式の変化を受けた国内需要の拡大や洋食器などに見られる輸出製品の開発などにより、大きく発展する。洋食器の生産と輸出は、試行錯誤の末の白色硬質磁器ディナーセットの完成に始まり、後には、「ノリタケ」の名が世界中に知られるまでに成長する。他方、常滑では、鉄道の延伸や都市化の進展、さらには、震災を契機として、土管やテラコッタ、染付古便器などの製造が行われ、瀬戸では、海外でのマーケット調査に基づき、外国人の志向にあった陶磁器の商品化が進められ、19世紀後半のジャポニズムを演出していく。また、愛知県三河地域や島根県では、庶民の住宅で瓦を使用できるようになったことを背景に三州瓦や石州瓦の大量生産が行われ、さらに、信楽では「なまこ釉」を用いた多様な火鉢の量産が行われていく。 このストーリーの近代化産業遺産例

江戸時代に連房式登り窯が中国から伝わり、既に全国各地に成立していた窯場に広がることにより、我が国における陶磁器の大衆化の基礎が確立された。その後、我が国の近代化とともに、洋食器や花瓶などの装飾品の生産と輸出、鉄道延伸によって大量生産が必要となった土管製造、瓦、火鉢、耐酸石器などの生活・工業関連陶磁器の普及拡大等がおこり、我が国の近代窯業は大きく発展することとなった。
洋食器製造では、ノリタケカンパニーの創立者である森村市左衛門が福沢諭吉の助言により1876 年に貿易商社「森村組」を創業し、弟である森村豊とともにニューヨークに輸入雑貨店「森村ブラザーズ」をスタートさせ、我が国初の海外貿易を開始するが、その数年後に開催されたパリ万博で、精緻に絵付けされた白い陶磁器に出会い、輸出用洋食器の製造を目指すこととなった。そして1904 年に日本陶器合名会社を創立し、欧州から導入した製陶機械や石炭窯を用いて技術改良に努めた。そして1914 年に試行錯誤の末に完成した我が国初の白色硬質磁器のディナーセットは、後に「ノリタケ」の名を世界に広げ、重要な輸出産業として外貨獲得に寄与していくことになった。
一方、中世六古窯など、長い歴史を有する各地の陶磁器産地においても、近代になって窯の形態や燃料、釉薬等に関する様々な技術開発が進められ、これを背景として窯業産地として大きく発展する地域が出現した。
常滑における近代窯業の発展を支えたのは土管の生産であるが、高温焼成による硬質で均一性に優れた土管の大量生産への要請に応えることができたのは、早くから欧州技術を導入していた「森村組」からの技術指導を得て1901 年に完成した我が国初の石炭焚きの両面焚倒焔式角窯(石炭窯)と、釉薬をかけなくても艶出しができる食塩釉の技術開発によるものであった。しかし、常滑での窯の改良は登り窯から一気に石炭窯に移行したわけではなく、その発展過程には登り窯を改良し燃料に石炭と薪を併用する「折衷窯」が伊奈初之丞によって開発され、広く普及した時期もあった。また、土管の国内需要の増加には、横浜外人居留地の下水道整備と東海道線建設の際の盛土によって分断される水田の水路用土管敷設が背景として挙げられるが、その後の都市化の進展や国民の生活様式の変化、さらには濃尾大震 災や関東大震災等を契機として、常滑では建築装飾(テラコッタ)や陶磁器製便器である染付古便器の製造も始まり、陶磁器の新たな需要拡大が図られた。
瀬戸においては、江戸後期から磁器製造が盛んになり、中でも青一色の染付焼である「瀬戸染付」は、国を挙げて初めて参加した1873 年のウイーン万博以降、フィラデルフィア万博、パリ万博にも出品されて高い評価を得た。これらの万博を契機として我が国の磁器は広く海外に輸出されることとなったが、19 世紀後半におけるジャポニズムの流行の背景には、「森村組」を中心とする海外でのマーケット調査に基づき、常に外国人の志向にあったデザインによる商品化を進めたことが大きく影響しており、その重要なテストケースとして万国博覧会は大いに役立ったといえる。
瀬戸の磁器製造には従来からの陶器を焼く大型の本業窯ではなく、より小型の古窯や丸窯が用いられていたが、その後、1902 年の石炭窯の導入をきっかけとして、大正、昭和期には石炭窯が広く普及、定着した。さらに動力ロクロの導入などにより近代化が進み大量生産時代に入るとともに、新たな製品開発により、タイル、碍子、ノベルティなどの生産も行われるようになった。
瓦製造では、明治期以降になると庶民の住宅でも瓦の使用が許されたことを背景として、まずは「三州瓦」で知られる愛知県三河地方で、石炭焚き達磨窯の普及により分業化が進み、我が国最大の生産地へと成長を遂げ、三州瓦の瓦作りの技術は長野や静岡など東日本を中心に伝播していった。一方、「石州瓦」で知られる島根県でも、明治期に大規模な登り窯による瓦の大量生産へと移行し、来待石の釉薬を使用した赤瓦の製造により、三州に次ぐ産地となった。
その他、滋賀県の信楽では、明治時代に開発された青藍紫色と白色失透色が粒状に溶け合った斑点模様の「なまこ釉」を用いた火鉢を、暖房器具として多種多様にわたり量産することにより生活関連陶磁器の大衆化に寄与し、山口県の小野田では耐酸性という特殊用途への対応により「耐酸石器」と呼ばれる工業用耐酸材料を西日本各地の化学工場向けに大量出荷するなど、個性的な製品開発とそれを支える技術革新が各地の窯業地域においても展開されていった。

旧ヒダ煉瓦工場:常滑から江別へ技術移転の軌跡を示す遺産北海道江別市
北海道江別市に残されている旧ヒダ煉瓦工場の建物は、愛知県常滑市より北海道江別市野幌へ移住した肥田房二が、1941 年に設立した肥田製陶の工場である。設立当時、肥田は常滑で修得した技術を活かして土管の製造を開始するが、昭和26 年に工場が火事で焼失したことをきっかけとして、現存する煉瓦造りの窯業工場を再建・増設した。
江別市では1891 年より既に煉瓦の製造が始められており、特に野幌地区には北海道炭礦鉄道会社が煉瓦工場を設置するなど、北海道の煉瓦生産 の中心地として栄えていた。
そのため、肥田製陶でも土管だけでなく煉瓦製造も行うようになっていった。常滑から江別へ、技術は人を介して移動し、その土地の風土と出会って新たな技術や産業を生みだしていくことを、この旧ヒダ工場は雄弁に物語っている。
  • 23-a ノリタケ旧製土工場(ノリタケの森内)/愛知県名古屋市西区
  • 23-b INAX窯のある広場・資料館石炭窯/愛知県常滑市
  • 23-c 陶栄窯/愛知県常滑市
  • 23-d 古窯/愛知県瀬戸市
  • 23-e 三州瓦だるま窯/愛知県高浜市
  • 23-f 信楽の登り窯/滋賀県甲賀市
  • 23-g 旦の登り窯/山口県山陽小野田市
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出典:経済産業省作成「近代化産業遺産群33」

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