HERITAGE OF MODEARNIZATION Story.29 『東洋のマンチェスター』大阪と西日本各地における綿産業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群

紡績業復活

綿花を産する西日本各地で広く普及していた紡績業は、開国後、安価な輸入品に押されて急速に衰えた。政府は、国内紡績業を保護・育成するため、官営模範工場を設立するとともに、海外から購入した精紡機を払い下げて民間工場を設立させたが、これらの工場は近代紡績工場としては小規模で、安価な輸入品に対抗するには至らなかった。他方、紡績業の将来性に着目した東西の財界人の参加により、大阪紡績会社が設立されたが、ここでは、大規模操業、動力への蒸気機関の導入、徹夜業の採用、安価な中国綿の輸入等の新たな手法を導入することで生産コストを低下させることに成功し、我が国で初めて近代紡績工場の経営を軌道に乗せた。この後、西日本の各地では大規模な民間紡績会社が次々と展開し、遂には綿糸輸出が輸入を凌駕するに至る。大阪紡績会社などが立地した大阪は、綿花の輸入拡大や綿糸・綿織物の輸出拡大に伴って貿易会社が次々と設立され、また、大阪港でも近代的な築港整備と周辺への倉庫建設が進み、「東洋のマンチェスター」と呼ばれる綿産業の一大中心地へと発展していった。 このストーリーの近代化産業遺産例

紡績業は、江戸時代の末期には農家の副業や衣類自給のため、綿花を産する西日本の各地に広く普及していたが、開国後は安価な輸入品におされて急速に衰えた。政府は国内紡績業を保護育成するために、明治初期に官営模範工場を設立するとともに、イギリスから購入した精紡機を払い下げて全国10 か所の民営工場(十基紡)を設立させた。これらの工場は概ね2千錘程度の規模と近代紡績工場としては小規模であったため、安価な輸入品に対抗するには至らず、総じて経営不振であった。 一方、渋沢栄一、松本重太郎、藤田伝三郎など、紡績業の将来性に着目した東西の財界人の参加により、1883 年に大阪紡績会社(現:東洋紡績㈱)が設立されて操業を開始し、1万錘以上の大規模操業、動力への蒸気機関の導入、徹夜業の採用、安価な中国綿の輸入等の新しい手法により生産コスト低下に成功し、我が国で初めて近代紡績工場の経営を軌道に乗せた。また、渋沢は十基紡の一つであった三重紡績会社の再建を支援し、これを受けて新たに三重紡績㈱(現:東洋紡績㈱)が発足した。そして、これに触発されて、1880 年代後半から西日本を中心とする各地で大規模な民間紡績業会社が次々と発展し、1897 年には綿糸輸出が輸入を凌駕するに至った。このように近代紡績業が西日本に多く立地した背景としては、もともと綿花の産地であったことが挙げられる。例えば、倉敷紡績(現:倉敷紡績㈱)、 尼崎紡績(現:ユニチカ㈱)、和歌山紡績(現:日東紡績㈱)、熊本紡績(現:月星化成㈱)などは、当初は地元又は近隣地域で産する綿花を用いた殖産興業の観点から設立された企業であった。しかし、国産綿はコストが高く、また繊維が短いため細番手の糸を紡出することが困難という制約があったため、大阪紡績と同様に輸入綿花への転換を図り、太番手の糸の原料として繊維は短いがコストが安い中国綿、細番手の糸の原料としてインド綿の輸入が拡大した。 その後、紡績業の発展は、皮肉にも慢性的な生産過剰を引き起こし、紡績会社は経営難に陥ったが、紡績連合会の主導による操業短縮と輸出奨励金の交付、織布兼営化による製品加工度の向上により打開を図った。この動きの中で、紡績業に続いて綿織物業の近代化が促され、紡績・織布兼営工場だけでなく織布専業工場も各地に相次いで建設された。また、このような綿織物業の成長は、輸入に頼っていた織機の国産化を要請するようになり、大阪合同紡績の谷口房蔵や綿花輸入を担っていた三井物産が豊田佐吉を支援するなど、織機の技術開発に大きく寄与した。 一方、これらの技術改良や個別企業による経営努力に加えて、より抜本的な経営改善を図るための動きとして、鐘淵紡績の武藤山治は、「紡績合同論」を唱えて同業者の併合に乗りだし、他社もこの動きに追随し、大企業への統合が進んだ。 こうした中で、大阪紡績、大阪合同紡績(後に大阪紡績と合併、現:東洋紡績㈱)、尼崎紡績などの大企業が立地した大阪では、綿花の輸入拡大に伴って貿易商社が次々と設立され、大阪港では近代的な築港整備と周辺への倉庫建設が進み、原料綿花の輸入と綿糸・綿織物の輸出の拡大が可能となった。これらの結果、1929 年には大阪港からの綿製品の輸出額が世界第1 位となり、「東洋のマンチェスター」と呼ばれるような綿産業の一大中心地へと発展を遂げた。大阪の綿業経営者たちは、業界の発展を図る ために日本綿業倶楽部を設立し、その拠点として綿業会館が建設された。今日に引き継がれる綿業会館の偉容は、当時の大阪綿産業の隆盛ぶりを物語っている。 このように、当初は内需を満たすための殖産興業として始まった近代綿産業は、経営改革と技術革新により大きな発展を遂げ、国内外の市場に大量の綿製品を供給し、我が国の経済と生活を支えた。

近代紡績業の偉大な経営者を偲ぶ文化遺産兵庫県神戸市
近代紡績業は主に若年の女子労働力、特に日清戦争後は遠隔地の農村から募集した女工たちによって支えられており、「女工哀史」という言葉が生まれたことからもわかるように、昼夜2 交替制の12 時間労働、休日は隔週1 回という厳しい条件での労働が一般的であった。 このような中、明治後期から大正になると、鐘淵紡績の武藤山治や倉敷紡績の大原孫三郎など、労働環境の改善に目を向ける経営者が現れはじめた。なかでも武藤は、製品品質の改善の為には勤労意欲の向上が不可欠であると認識し、「温情主義」または「家族主義」と呼ばれる考え方で寮制度の導入や我が国初の共済組合の設置などの福利厚生に力を注ぎ、鐘紡をわが国有数の大企業に育てあげた。 武藤の業績を偲ぶことが出来る文化遺産として、彼が1907 年に神戸市舞子に建てた邸宅がある。彼の死後は鐘淵紡績に寄贈され、垂水区に移築・保存されていたが、2007 年4 月には兵庫県に寄贈され、2008 年度までに県立舞子公園に移築される予定である。
  • 29-a 綿業会館/大阪府大阪市中央区
  • 29-b 旧中林綿布工場(熊取交流センター煉瓦館)ランカシャーボイラー/大阪府泉南郡熊取町
  • 29-c 田尻歴史館・旧谷口家吉見別邸/大阪府泉南郡田尻町
  • 29-d 旧鐘紡洲本工場原綿倉庫/兵庫県洲本市
  • 29-e 倉敷アイビースクエア中庭(旧倉敷紡績所)/岡山県倉敷市
  • 29-f 熊本学園大学産業資料館 (移築/旧熊本紡績電気室)/熊本県熊本市
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出典:経済産業省作成「近代化産業遺産群33」

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