HERITAGE OF MODEARNIZATION Story.30 地域と様々な関わりを持ちながら我が国の銅生産を支えた瀬戸内の銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群

地域に刻まれる近代化

瀬戸内地域の銅生産は、明治・大正期に、優れた経営者の下、技術革新による増産が達成され、大正期まで世界で五指に入っていた我が国の銅生産を支える重要な存在となった。こうした中、瀬戸内地域では、銅を起点する産業の多角化と鉱工業都市・新居浜の発展、吉岡銅山に隣接し、銅の製錬と銅山から産出される硫化鉄鉱を原料とする弁柄の製造を行う地区として活況を呈した吹屋における弁柄格子と塩田瓦の独特の景観の形成、銅山開発により荒れた環境を復元するための植林事業などの公害対策の展開や煙害対策等の観点からの犬島など瀬戸内の島嶼への製錬所の建設など、近代産業と地域との関わりを捉える上で重要かつ興味深い事象が発生していった。 このストーリーの近代化産業遺産例

銅は江戸時代から主要な輸出品として我が国の経済を支える存在であった。江戸幕府は17 世紀中頃から全国で産出する粗銅を大阪の銅吹所に集めて製錬し、長崎に送ることとした。その中で、泉屋(現:住友グループ)の2代・友以は、大阪の銅製錬業で中心的な役割を担うに至り、3代・友信の頃には鉱山経営にも乗り出し、操業を休止していた吉岡銅山を買収し、一時はかなりの産出高を上げた。さらに代を経て別子銅山を開発し、1698 年には我が国の銅産出高の4分の1を占めるほどの大鉱山に成長させた。
別子銅山は、明治以降も住友による経営が許されたが、幕末に度重なる大湧水に見舞われて疲弊しており、また市場では安価なアメリカ産銅に押されていたこともあって、経営の立て直しが急務であった。支配人の広瀬宰平は、外国人技術者から学びつつも外国資本に頼らず独力で近代化を図ることを目指した。まず、フランス人技術者を招いて近代化計画である「別子銅山目論見書」の作成を依頼し、この成果を参考として1876 年に広瀬自ら近代化起業方針を作成した。また、部下をフランスに派遣し鉱山技師の育成を図った。
別子銅山の近代化においては、特に「採鉱」、「輸送」、「製錬」の3点で技術革新が行われた。
「採鉱」については、1895 年に深度526mに及ぶ東延斜坑が完成し、構内の鉱石運搬・交通・通気・排水の便を高めた。
また、その後も第三通洞や日浦通洞、第四通洞といった大規模坑道を整備し、出鉱量の拡大を図った。
「輸送」については、欧米鉱山視察から帰国した広瀬が、従来の牛車運搬に代わる別子鉱山鉄道の敷設を構想し、1893年には、我が国初の山岳鉄道である上部鉄道(角石原~石ヶ山丈)と下部鉄道(端出場~惣開)を開通させ、輸送力を大幅に増強した。また、選鉱、排出等の鉱山の電化や製錬所などの坑内動力の電化のために発電所の整備に着手し、1912 年には出力3000kW の端出場水力発電所を建設した。
「製錬」については、大阪の製錬所が別子銅山の山元製錬として立川に移され、高橋、山根での洋式製錬を経た後に、1888 年には洋式の新居浜製錬所(惣開製錬所)を建設して本格操業を開始した。さらに1905 年には、亜硫酸ガスによる煙害の対策として、広瀬宰平の後継者である伊庭貞剛により、瀬戸内海の四阪島に製錬所が移転され本格操業を開始した。
このような努力により産銅量は飛躍的に増大し、1869 年には373tであったものが1909 年には6,328tに達した。そして、銅の採掘を起点として化学工業(煙害対策の副産物活用)、銅加工業(別子産銅の活用)、機械工業(鉱山機械の製作・修理)、石炭業(溶鉱炉の燃料自給)などの事業が次々と誕生し、多角的な近代化が達成され、今日の住友グループの事業へと継承されることとなった。
また、別子銅山の経者たちは、事業の存立基盤となる地域との共生の観点から、環境保全や都市計画の取組みを行った。前述の伊庭は、銅山開発により荒れた環境を復元するために植林事業を開始し、以降の経営者もこれを着実に継続し、山々は緑を取り戻した。そして、昭和初期に別子銅山の最高経営者となった鷲尾勘解治は、住友の資金で計画的に道路・港湾・住宅地などを整備し、今日の新居浜市街地の基礎を築いた。
このように、江戸時代から今日まで、住友という一企業が280 年以上にもわたり別子銅山の経営を継続することで、新居浜市は鉱工業都市として持続的な発展を遂げ、銅山が休山となった現在でも緑に抱かれた四国有数の工業都市であり続けている。
吉岡銅山は、江戸時代より銅山から産出される硫化鉄鉱を原料とする弁柄(建造物の塗装や焼物の着色等に用いられる赤色顔料)の製造で高名となり、繁栄した。1873 年には三菱の岩崎彌太郎が買収し、削岩機や水力発電の導入、トロッコ専用道路の敷設、我が国初の洋式溶鉱炉の建設など、巨大な資本力と近代技術の導入で発展し、1904 年には約1,590 人の従業員(事務員を除く)を擁する我が国屈指の銅山となったが、次第に粗鉱の品位が下がり、また、第一次世界大戦後の不況とその後の世界恐慌の影響もあって1931 年に休山した(戦後に再開し、1972 年に閉山)。吉岡銅山は三菱が初めて経営した金属鉱山であり、当初は採算に合うだけ の産出を見なかったが、近代技術の導入により経営を軌道に乗せることができ、この経験が後の全国各地の鉱山開発で役立った。
また、吉岡銅山に隣接する吹屋は、弁柄製造等を行う地区として活況を呈し、赤色の弁柄格子と塩田瓦とで彩られた街並みが形成された。弁柄は銅山に由来する産品、塩田瓦は江戸時代以来の地場産品であり、銅山と瓦という地場産業の発展とともに、それを象徴する独特の景観が形成された。
これらの銅山の隆盛ともに、明治末期から大正期には、原料や製品の輸送の利便性や、製錬(精錬)時に発生する亜硫酸ガスによる煙害への対策の観点から、瀬戸内海の島嶼に製錬所(精錬所)が建設された。1909年に地元資本によって建設された犬島精錬所もその一つであり、後に藤田組、住友へと経営者を変えつつ銅の精錬を行ったが、銅の価格が大暴落したことにより約10 年で操業を終えた。犬島では一時的に人口が急増し、港の周辺には会社の社宅や飲食店、娯楽施設等が立ち並び、当時の銅生産の好調ぶりを反映した活況を呈した。
なお、今日の犬島には、かつての大規模な精錬事業の姿を伺わせる煙突等の遺構が良好な状態で残されている。
以上のように、瀬戸内地域の近代の銅生産では、優れた経営者のもとで増産が達成され、大正期まで世界で五指に入っていた我が国の銅生産を支えた。また、こうした中で、銅を起点とする産業の多角化と工業都市・新居浜の発展、吹屋における独特の産業景観の形成、公害対策と瀬戸内の製錬所(精錬所)との関係など、近代産業と地域との関わりを捉える上で重要かつ興味深い事象が発生し、これらを物語る遺産が今日まで継承されている。

製錬に端を発する環境技術の発展①愛媛県今治市:四阪島製錬所
別子銅山の最高経営者・伊庭貞剛が、煙害対策の観点から新居浜から瀬戸内海の四阪島への製錬所の移転を図り、1905 年に本格操業を開始した四阪島製錬所は、時代に応じた先進技術を導入することで公害を克服しつつ、長年にわたって別子銅山で採掘された銅や輸入銅の製錬を担ってきた。
1973 年の別子銅山の休山後、1976 年には銅製錬の操業を終結することになったが、長年培われてきた製錬技術と環境対策技術を活かし、電気炉製鉄で発生する製鋼煙灰から酸化亜鉛を回収するリサイクル事業を行っている。
製錬に端を発する環境技術の発展②香川県香川郡直島町:直島製錬所
三菱合資会社(後の三菱鉱業、現:三菱マテリアル㈱)が1917 年に創業を開始した直島製錬所は、当初は吉岡銅山の附属製錬所であったが、時を経て生野鉱山や佐渡鉱山の金銀、さらに北海道産の銅や輸入銅まで、国内外各地の多様な鉱物を製錬することとなった。
現在ではこの技術的蓄積を活用して、金属製錬を引き続き行うとともに、香川県豊島に不法投棄された産業廃棄物の処理施設を敷地内に整備したことを契機として、製錬施設を活用したリサイクル事業を行うなど、循環型社会のモデルであるエコタウン事業を香川県、直島町とともに進めている。
  • 30-a 吉岡銅山 笹畝坑道/岡山県高梁市
  • 30-b 吉岡銅山 ベンガラ館(復元)/岡山県高梁市
  • 30-c 犬島精錬所/岡山県岡山市
  • 30-d 別子銅山 第四通洞跡/愛媛県新居浜市
  • 30-e 別子銅山 打除鉄橋/愛媛県新居浜市
  • 30-f-1 別子銅山 旧端出場水力発電所/愛媛県新居浜市
  • 30-f-2 別子銅山 旧端出場水力発電所 内部/愛媛県新居浜市
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出典:経済産業省作成「近代化産業遺産群33」

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