HERITAGE OF MODEARNIZATION Story.31 産炭地域の特性に応じた近代技術の導入など九州・山口の石炭産業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群
九州北部山口県では、江戸時代から石炭の採掘が行われており、灯火や製塩などのエネルギー源として用いられていたが、開国とともに、蒸気船などの燃料としての需要が急速に拡大したことが契機となり、まず、高島炭鉱で近代技術を活用した炭鉱開発が始まった。この動きは人材や技術の交流を通じて、三池、筑豊、山口県など各地に広がり、九州北部と山口県は我が国近代産業の発展を支える一大炭鉱地域として発展を遂げた。また、これら九州北部や山口県における炭鉱の近代化は、採炭機械の国産化を通じた機械工業の発展、効率的な輸送システムの整備、さらには石炭を原料とした化学工業の発展など、多面的な産業の発展へと結びつき、我が国の近代産業の発展に貢献していった。 このストーリーの近代化産業遺産例
九州北部と山口県では、江戸時代から石炭の採掘が行われており、灯火や製塩などのエネルギー源として用いられていたが、開国とともに蒸気船や蒸気機関の燃料としての需要が急速に拡大したことが契機となり、まず長崎県の高島炭鉱で近代技術による炭鉱開発が始まった。この動きは人材や技術の交流を通じて各地に広がり、九州北部と山口県は我が国近代産業の発展を支える一大炭鉱地域として発展を遂げた。
高島炭鉱は、幕末には佐賀藩等、明治初期には政府によって開発された海底炭坑である。この頃に開発された北渓井坑及び南洋井坑は、竪坑に蒸気を動力とした巻揚機と排水ポンプが導入された。横坑の排水や運搬・通風は依然として人力であったが、排水に悩みを抱えていた在来石炭業者に大きな衝撃を与え、数多くの関係者が高島に見学に訪れるなど、我が国近代石炭業の嚆矢として大きな役割を果たした。また、石炭層が地下深くに分布する我が国では、海底炭田の開発が盛んに行われることとなったが、高島炭鉱はその先駆けでもあった。その後、炭坑は三菱社の岩崎彌太郎の手に渡り、周辺の端島などの鉱区を開発して石炭を産出し続け、船舶燃料としての輸出炭や八幡製鉄所のコークス原料炭等を供給した。
福岡県南部と熊本県北部にまたがる三池炭鉱は、明治初期に官営とされ、1876 年に高島炭坑で技術指導を行っていたお雇い外国人フレデリック・アンソニー・ポッターが赴任し、近代化が始まった。まず在来炭坑である大浦坑で、高島炭坑と同様の竪坑への近代技術の導入が行われた。その後、新たな炭鉱として七浦坑・宮浦坑が順次開発され、機械通風の導入や坑内軌道の敷設など横坑への近代技術の導入も行われるようになり、大規模採炭が可能となった。これらの結果、1880 年代後半には高島炭鉱の出炭高を上回り、我が国最大の炭鉱に成長した。また、この間、我が国で初めての石炭輸出を開始した。1889 年に三井に払い下げられて以降は、アメリカ帰りの近代技術者団琢磨らの指導によって勝立坑、宮原坑、万田坑などの大規模竪坑が次々と開発された。また、石炭輸送の面では、当初は馬車鉄道で港まで輸送され、小型船で口之津港または近代的港湾として新たに整備された三角西港まで輸送され、大型船に積み替えが行われていたが、時間や人件費の縮減を図るため、三池炭鉱専用鉄道・三池港が整備された。関連産業の面では、三井三池製作所での国産機械の製造が進められるとともに、明治末期以降は石炭からコークスへの加工が始められ、その副産物であるガスとタールを原料とした窒素や染料、医薬品製造などが行われるようになり、三池地域で我が国初の石炭化学コンビナートが発展した。
福岡県北部の筑豊炭田は、明治前期には多数の事業者が小規模な採掘を行っていたため、高島・三池に比べて近代化が遅れた。しかし、1881 年に目尾炭鉱で、杉山徳三郎の手でイギリスから輸入したスペシャルポンプによる機械排水に成功したことが大きな転機となった。この地域は在来事業者の資本力が小さかったこともあり、当初は三池炭鉱とは異なり斜坑により開発が進められ、これに適したスペシャルポンプが普及した。
1880 年代末期からは在来資本の統合や三菱・三井等の大資本の参入で近代的な炭坑が支配的となり、日清戦争前の1893 年からの10 年間で出炭高が約5 倍に増加し、我が国の出炭高のうち約6割を占める一大産炭地となった。また、増産と並行して輸送力の増強を図るため、従来の遠賀川や掘川運河を経由した五平太船(川ひらた)による水運に加えて、門司港・若松港に至る鉄道輸送ルートが整備され、国内外に運び出された。
同じく福岡県北部の糟屋炭田では、1889 年に海軍が戦艦燃料の調達のために開発に着手し、1943 年には志免鉱業所に大竪坑を完成させた。ここは戦後には国鉄の所有となり、蒸気機関車の燃料を供給した。
佐賀県では、高島炭鉱で坑長や支配人等を歴任した高取伊好が近代的な炭鉱開発に乗りだし、まずは県北部の唐津周辺、続いてこれらの売却資金で県南部の杵島炭鉱の開発を行った、杵島炭鉱は明治末期から大正期にかけて出炭高を飛躍的に伸ばし、高取は「肥前の炭鉱王」と呼ばれるほどの成功を収めた。
山口県の宇部では、1897 年に渡辺祐策が匿名組合沖ノ山炭鉱を創業して近代的な採掘を開始し、その後も東見初炭鉱、本山炭鉱などが複数の資本により相次いで開発された。これらの炭鉱では、人手不足を補うために当時の先進地域であった九州地方から多くの炭鉱経験者を鉱員として雇った。宇部で採掘された煙やにおいが少ない五段炭は、工場用や家庭用として適していたため、東京や大阪を始め全国に販路を拡大した。
また、石炭の採掘を契機として機械工業やセメント製造業などが興り、戦時中の1942 年には沖ノ山炭鉱とこれらの工業が合併して宇部興産㈱が発足し、今日の工業都市の礎が築かれた。
このように、九州北部・山口県の炭鉱は、産炭地間の人材・技術の伝播を通じて、それぞれ異なる経営者のもとで近代化に成功し、近代産業のエネルギー源として大きな役割を果たした。また、これらの炭鉱で産する石炭は世界的に見ても品質が高く、蒸気船の燃料として国内や香港・上海を始めとする国外で広く用いられ、世界的な海運ネットワークを支える存在となった。さらに、炭鉱の近代化は、採炭機械の国産化を通じた機械工業の発展、石炭という嵩の大きな資源の効率的な輸送システムの整備、さらには石炭を原料とした化学工業の発展など、我が国の多面的な産業の発展に結びついた。
一方、地域史の観点から見ても、各地の労働者の集積に端を発する教育や福利厚生などの取組み、筑豊の田川が発祥といわれる「炭鉱節」等の独特の文化に見られるように、石炭産業は経済・生活・文化等のあらゆる側面に影響を及ぼす地域の存立基盤となり、その影響は石炭の採掘を終えた今日も引き継がれている。
- 31-a 端島(軍艦島)/長崎県長崎市
- 31-b 茶屋町橋梁/福岡県北九州市八幡東区
- 31-c 旧門司税関/福岡県北九州市門司区
- 31-d 田川市石炭・歴史博物館 炭鉱住宅(復元)/福岡県田川市
- 31-e 志免鉱業所竪坑櫓/福岡県糟屋郡志免町
- 31-f 三池炭鉱 三井港倶楽部/福岡県大牟田市
- 31-g 沖ノ山電車竪坑石垣/山口県宇部市
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出典:経済産業省作成「近代化産業遺産群33」
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